1298年、上野国神名帳利根郡の部に、寶高大明神は従一位に、薄根大明神は従二位にその御名が見えており、その神階の高さからみると、朝廷の崇敬が大変篤く、土地の人々からも崇敬されている大社でした。
寶高大明神とは倭建命で、もとは現在の沼田公園内に鎮座され、沼田一帯の総鎮守でした。また、薄根大明神は菅原道真命で、古来より現在の社地に鎮座されて崇敬を受け、その参道は梅樹並木でした。それぞれの御宮がそれぞれの場所で崇敬され、親しまれてきましたが、享禄2年(1529)、沼田万鬼斎顕泰は、新たに城(倉内城)を寶高大明神の社地に建てることを決め、既に幕岩城内に祀られていた埴山姫命を合わせ、この三大神を一社に奉祭し、現社地にご社殿を建立しました。
その後、元和元年(1615)、真田信之公はご社殿を改築され、家紋の六文銭を御扉の上に描き、現在に至っています。
しかし、それよりもはるか昔、正応3年(1290)に奉納された梵鐘に、臼根郷春名権現の名が見えます。この鐘は残念なことに、真田が上田に帰った時に一緒に持ち帰り、後に熔かされてしまったといわれています。
その後、榛名大権現として、一帯の総鎮守と称えられましたが、明治2年、榛名大神と改めました。尚、明治5年氏子分離の訴訟があり、群馬県の論示により、6ケ町が須賀神社の氏子に改められ、今に至っています。以後、明治6年郷社に定められ、昭和3年縣社に昇格致しました、当地方きっての神社であり、産業推進の神、家屋・交通の神・文運保健の神として、ご神威は広く輝いています。
また、諏訪大神は、古来、瀧棚(現在の上町)に鎮座され、寛政年間に榛名神社の西に鎮座せられましたが、明治41年に合祀されました。(ご社殿は、現在、上久屋神社の社殿となっています)
当社は、沼田氏、真田氏、本多氏、土岐氏と、代々城主の崇敬を受け、数々のご奉納の記録がありますが、現在も本殿御扉の上には、真田家の家紋である六文銭がはっきりと描かれています。また、本多豊前守ご奉建の鳥居も現存しています。
榛名神社には、ご本殿に坐す四柱の御神祭の他、十二柱の神様が鎮座されております。長年にわたり、たくさんの方から篤く信仰されて現在に至っております。